ホーム > おしえてTea Cha! > 茶の歴史 > 唐代の喫茶法 単独で煮る茶
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(唐 618~690年、705~907年)
陸羽が、中国茶の聖典『茶経』を書いたのは唐の中期760年前後。『茶経』の中には「粗茶、散茶、末茶、餅茶」の4種類の茶を書いていますが、すべて蒸して殺青(発酵を止める)する、日本の緑茶と同じ系統の茶と考えられています。その中で最も複雑な餅茶の作り方のあらましは、次のようなものです。
つまり、茶は固められた穴明き団子の状態で、今のパラパラした葉茶とは違っていました。この団子状の茶の飲み方は次の通りです。
塩を入れる点は、漢のスープ的な茶を連想させますが、主材料は茶で、茶がスープから飲み物へ変化してきたことが伺われます。材料からも、漢代に比べてさらっとした液体だったと想像されます。餅茶は製茶にも飲用にも手間隙がかかり、後には皇帝への献上茶のみになっていきます。社会の支配階層の飲み物だったと考えてよいでしょう。茶器は白磁、青磁などが使われ、宮廷ではガラスも使われていました。当時の文人も茶会、茶宴というティーパーティを開いて楽しみ、茶に関する詩や文を多く残しています。茶の湯の色は、佻州の白磁では赤く、越州の青磁に入れると緑に見えるとあるので、浅黄色だったと推測されます。
陸羽と同時期の封演が書いた『封氏聞見記』には唐代の長安には茶を煎じて飲ませる店がたくさんあり、僧も庶民もこれを飲んだとあります。茶がかなり一般化してきたことがわかります。これらの一般庶民向けの茶は餅茶ではなく、もっと簡便な茶だったと考えますが、文献資料が少ないのではっきりしません。
陸羽の時代にも漢代同様混ぜものをする茶があったようで、『茶経』はこれを非難していますから、スープに近い茶も普通に行われていました。
唐代は茶の生産量が増え、貴重性は漢代ほど高くありませんが、その飲み方が多様化し一般人に普及し始めていたのです。
(参考文献)
<日本書>
<中国書>
(斎藤 美和子)
(上)ガラス製の茶盛と茶托 (中)茶碾子 (下)純銀 軸 *3点とも中国法門寺博物館提供