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イギリス東インド会社の茶生産

「東インド会社はだれが監督していた?イギリス政府だ。会社の目的は?税金を集めることさ。どうやってそれができた?大常備軍を持っていたからだ。従業員は?大部分が兵隊で、残りはお役人だ。どこと貿易した?支那と。イギリスからは何を輸出した?度胸だ。輸入したのは?お茶だ。」これで十分である。(ブライアン・ガードナー『イギリス東インド会社』より)

1 中国との茶貿易で発展

イギリス東インド会社は1600年に創設されました。株式会社でしたが、インドの統治権をもつなど国家から強大な権限を与えられた国策会社であり、また大独占企業でありました。お茶とは密接な関係で発展してきました。しかし最初からお茶と関係していたわけではなく、貿易ではイギリスから羊毛や綿製品、鉄、鉛、錫等を輸出し、東洋からはペッパーやスパイス類などの香辛料、絹、陶磁器などを輸入していました。イギリス東インド会社が最初にお茶を輸入したのは1669年で、中国・アモイ港からのお茶222ポンドでした。以後輸入量は急増し、それから約50年後の1721年~1730年には880余万ポンドと、なんと約4万倍という驚異的な増大でした。イギリス国内で急速にお茶が広まったからでした。

2 インドでお茶を生産

1700年代から1800年代にかけ、イギリスのお茶はほとんど中国産のものでした。1830年代になるとインドでも茶の栽培が始まりました。というのも1823年、東インド会社の軍人、ブルース兄弟の兄によってインドの奥地アッサム地方で茶の木が発見されたからでした。これがアッサム種で中国種とならんで今日でも茶の二大品種となっているものです。
1835年ころインド総督ベンチンク卿は「茶業委員会」をつくり、発見者の弟ブルースを茶生産の責任者に任命し、中国人技師2人を招いてお茶(紅茶)を作らせました。このお茶は1839年のロンドンでのオークションで最高値がつくほど上等なものでした。また、総督はアッサム地方に茶園をつくり、茶の栽培に全力をあげるよう指示したのでした。同年、プランテーション方式による茶の生産を目的に「アッサム株式会社」がイギリス東インド会社の援助もとに作られました。アッサム地方のジャングルはこうして大茶園へと変貌していきました。その後も茶園の開拓が進めら、ビハール州、ベンガル州などインド北東部に大茶園が作られてきたのでした。

3 ダージリン鉄道により世界市場へ

お茶を運ぶために1881年、ダージリン鉄道が開通しました。山間部をぬって走り、お茶を集め、輸出港カルカッタ(ダージリン鉄道の終点はニュージャリパイグリ)に運ぶためでした。カルカッタから東インド会社の船でロンドンに運ばれ、さらにアメリカなど世界市場に輸出されるお茶のルートが開かれたのでした。その後1857年、東インド会社の統治に反対する広範なインド人の抵抗運動、セポイの乱が起こったことやイギリス国内での自由貿易を求める動きの高まりなどから、同年、東インド会社は解散されることになりました。

(参考文献)
イギリス東インド会社 ブライアン・ガードナー リブロポート

(森竹 敬浩)

(上)東インドからオランダ本国あて貨物 (下)ダージリン鉄道(ダージリンのインド北東部の茶輸送のため開設された)