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お茶反対運動

「お茶反対運動」は、外国、とくに日本茶の主要輸出国であったアメリカでおこったものでした。日本のお茶がアメリカにはじめて輸出されたのは幕末のころ、安政6(1859)年でした。横浜の「米一番館」あるいは「亜米一」とよばれていたウォルシュ・ホール商会が輸出しました。同商会は予想外の好評によって多額の利益を得たのでした。以後、日本茶はアメリカで高い評価をうけ、絹についで2番目の主要な輸出品になるほどでした。しかし、輸出がさかんになる一方で不良品(乾燥不良、梱包不良)やニセ茶(柳の葉、クコの葉を混入)もまぎれこみ、当然のことながらアメリカでは不正・不良茶の輸入制限や禁止を求める動きが出たのでした。

1.明治時代初期(幕末・明治時代初期~明治10年代) 粗悪品やニセ茶の横行

乾燥不良品やニセ茶に対してアメリカは明治16(1883)年、『贋製茶輸入禁止条例』を国会で可決しました。その条文で「茶類物品」または単に「物品」と書いているように、とても「お茶」とはいえない「代物」が入っていました。アメリカ市民の怒りの声が聞こえそうです。すべてが粗悪品ではなかったのですが、海外での好評をいいことに一部の心ない人々による一もうけをたくらむ動きがあったのは事実でした。日本ではこの条例を機に、お茶の品質向上と不良茶追放のため、茶業組合連合会議所(現在の茶業会議所)が組織され、茶業者自身による取り組みが開始されたのでした。

2. 明治時代中期(明治初期~明治20年代) 着色茶の広まり

外国商人は横浜などの開港場で輸出茶にカビがはえないよう、熱による乾燥、いわゆる「再製」を行いました。その技術指導には中国人があたっており、この工程で着色されました。中国の緑茶は釜で炒って加工するため緑色がうすれ、そのため鉱物の黒鉛やソープストーン(石けん石)を炒りまぜて着色していました。したがってこの技術は中国で発達したものでした。日本茶は蒸して加工するため着色の必要はなかったのですが、輸出茶は着色することが一般化していたため、日本茶も中国の技術にならって着色し、輸出していたのでした。アメリカで着色茶が有害なものとして問題となり、明治30(1897)年、『不純不正茶輸入取締条例』が定められました。中国茶を対象としたのでしたが、日本茶もその対象となりました。

3. 大正時代(第一次世界大戦後の大正7年~) 木茎茶

木茎(もっけい)茶とは、製茶に茶の茎がまじったものでした。第一次大戦前から日本の茶業も機械化が進み、生産面でも茶刈りはさみが使われるようになり、農家に普及しました。茶刈りはさみは手摘みとちがい、労働時間が少なくなり、しかも収量は向上しますがどうしても茎が混入します。製茶の過程で木茎分離機にかけられましたが、当時は完全な分離が不可能なため、相当量の木茎が混入していたのでした。やはりアメリカで不良茶として問題となりました。大正7(1918)年、さきの『不純不正茶輸入取締条例』に、あらたに「浮き物(木茎または浮きかす)が標準茶より多量となる場合は当然拒絶される」という条文が追加され、これによって輸入を拒否される日本茶が続出したのでした。

(参考文献)
静岡縣茶業史 日本茶輸出百年史

(森竹 敬浩)