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煎茶道の歴史

日本では中国宋代の喫茶法である抹茶の飲用法が、禅の精神と結びつき茶道としてかたちづくられたのに対し、のちの中国明代の喫茶法である葉茶を使った飲用法は老荘思想の無為自然の境地を理想とする煎茶道を形成するに至りました。

15世紀、九州地方に漂着した明の人々によってに釜炒り茶が伝えられ、17世紀に来朝した隠元禅師(1592~1673)が中国の生活様式を日本に紹介するとともに、中国製の急須に釜炒り茶を煎じて飲む喫茶法を伝えました。

やがて18世紀になると高遊外(こうゆうがい)(芝山元昭(しばやまげんしょう)1675~1763)が京都で人々に煎茶を売りながら暮らし、売茶翁(ばいさおう)と呼ばれました。彼は、権力と結びつきいたずらに高価な茶道具を見せびらかせる当時の茶の湯のあり方に異議を唱え、中国唐の陸羽(りくう)や廬同(ろどう)の清風の茶の世界を理想としました。彼の清貧の茶風は、中国の文人達の暮らしに思いをはせる京都の文人墨客たちに受け入れられていきました。彼の茶風を慕う人々には南画家の池大雅(1723~76)や大坂の商人木村兼葭堂(けんかどう)(1736~1802)、『雨月物語』の作者で有名な上田秋成(1734~1809)など多彩な知識人が現れ、お互いに刺激しあいながら文人煎茶のスタイルが形成されて行きました。

こうした煎茶の動きはさらに高まり上田秋成と親交の厚かった田能村竹田(たのむらちくでん)(1777~1835)、頼山陽(らいさんよう)(1780~1802)など文化・文政期から幕末にかけてさらに一層盛んになっていきました。その一方で煎茶も大衆化が進み、次第に茶道にみられるような体系化、道化がなされ、煎茶家の中から田中鶴翁(1782~1848)や小川可進(1786~1855)といった煎茶道の家元が登場するようになりました。

(望月 伸嘉)