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利休の茶

室町時代、遊興の場から始まった茶の湯は、大徳寺の一休に参禅した村田珠光、堺南宗寺の宗套に参禅した武野紹鴎へと伝えられる間に、唐物荘厳の書院台子の茶から和物を用いた侘びの茶へと少しずつ変化をしていきます。そして茶の湯は利休の出現によってさらに大きく変わることになります。

利休は泉州堺の納屋衆、田中与兵衛の子で幼少の頃から茶の湯を志し、初め北向道陳に茶を学び、後に紹鴎に師事します。やがて織田信長に召し出され、今井宗久、津田宗及らと共に信長の茶頭となります。信長没後は、後を受けて天下人となった太閤秀吉に仕えて、文字どおり天下一の宗匠となります。

利休もまた茶の湯とともに、大徳寺の笑嶺、古渓和尚に参禅して禅を学びます。利休はそれまで「真の御座敷」といわれた茶の湯座敷の張付壁を土の荒壁に改め、床の塗框も木地とし、柱も面を取らない丸太を用いるなど、茶室の草庵化を進めます。同時に、紹鴎の時代には標準的な広さとなっていた四畳半をさらに縮少し、三畳から二畳、さらには一畳半といった極めて狭い空間を造りあげます。虚飾を廃した狭い室は、主客の間にある種の緊張感をあたえます。茶の湯の場は、もはやただの遊興の場では有り得なくなったのです。利休は禅の理想境を茶の湯の世界で具現しようとしたのかもしれません。

さらに利休は古法の上に新法を加え、自由闊達な茶の湯の世界を展開していきます。利休の高弟であった山上宗二が「宗易は名人なれば、山を谷、西を東と、茶の湯の法を破り、自由せられても面白し」と書き残しています。利休の旧来の概念に捕らわれない新たな発想と美意識は、ひとり茶の湯のみならず、その後の日本の文化に大きな影響を与えたと云われます。

しかし、利休の茶の湯に対する信念や激しさは、ともすれば秀吉と対立する元ともなったようです。秀吉によって死を命ぜられた利休は自刃して果てますが、その茶は子の小庵や道庵をはじめ、弟子の古田織部、細川三斎らによって伝えられ、様々に変化しながらも現在に至ります。

(参考文献)

利休大事典 千宗左・宗室・宗守 平成元年 淡交社
千利休 村井康彦著 昭和52年 NHKブックス

(小野 はやを)

利休木像:利休が秀吉から勘気を被る原因の一つになったと云われる。現在の木像は明治19年寄贈されたもの(大徳寺金毛閣)