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信長・秀吉と茶

日本各地に武将が群雄割拠し、天下統一を目指して戦乱が繰り広げられた戦国時代、彼ら戦国大名たちは京や堺で流行する茶の湯に強い関心とあこがれをもっていました。しかし彼らの関心は単に風流として楽しむ茶の湯ではなく、政治的な意味を多分に含んだものでした。

尾張の戦国大名であった織田信長(1534~82)は、次々に領地を拡大していくなか、屈服した相手に彼への服従の証として、名物茶器を献上させたり、強制買収するいわゆる「名物狩り」をおこない、多くの名物茶道具の収集しました。そしてこれらの茶道具を用いた茶会を催し、茶会の参加者に自らの権力を誇示しました。また部下の武将には勝手に茶会を催すことを禁じ、特別な論功のあった武将にのみ名物茶器を与えて茶会の開催を許可しました。このことは茶の湯の価値を著しく高めることとなりました。

信長によって茶の湯は政治的側面の強いものとなりましたが、彼の死後天下統一の事業の後継者となった豊臣秀吉(1536~98)は茶の湯を別なかたちで政治的に利用しました。秀吉は信長に仕えていた千利休を茶頭とし、信長の茶の湯を継承するいっぽう、関白就任の際、禁中において茶会を開いたり、黄金の茶室を造らせ茶の湯によって天下人の権威を示しました。またそれまでごく限られた人々の間で行われていた茶会に対し、貴賤の別を問わない北野大茶会に見られる大寄せの茶会を催し茶の湯による一大パフォーマンスを繰り広げ大衆へも茶の湯を広めることとなりました。

(参考文献)
『図録茶道史』 林屋辰三郎 淡交社 1980
『チャート茶道史』 谷端昭夫 淡交社1995
『茶の湯の歴史』 熊倉功夫 朝日新聞社 1990 

(望月 伸嘉)